1950年山口県下関市に生まれる。北海道大学の山岳部に入部したが、父親が亡くなりお金のかかる山岳部を諦め映画研究会に入る。その後は飲み屋、フリースペース、上映スペースを開設。90年代にミニシアターが次々に閉館されていくなか、札幌にミニシアターを残すのが自分の役割と考えて新たにシアターキノを1992年にオープンさせる。他に札幌国際映画祭実行委員、ジャパンプログラムのディレクター、NPO法人北の映像ミュージアムの理事、北星学園大学、札幌学院大学での非常勤講師や、セミナーの講師など様々な文化活動に積極的に携わっている。

たくさんの人に、いい映画を観てもらうための工夫

ー シアターキノではどのような業務をされていますか?

シアターキノには代表の僕と支配人の中島ひろみ、他に正社員スタッフ3名がいます。シネコンなどの大きな映画館と違って零細企業のミニシアターですので、仕事は分業というより私も含めほとんどのスタッフがいろんな仕事をまたがってやっています。 1年間の上映作品は平均150本。その作品選定交渉、上映スケジュール決め、毎日の配給会社への集計書作り。また、あらゆる宣伝&広報いろいろです。二か月に一度のムービーラインナップの原稿&編集、毎日の接客受付販売。キノの命といえる映写に関しては、スタッフが交代でやっていますが、彼ら、彼女らも映写だけではなく場内の宣伝用パネル作りやHPの作成、 チラシづくり、宣伝ボランティアの管理、受付案内、ロビーやトイレ清掃などいろいろなことをやります。他にも約50人のボランティアの皆さんが交代で受付をしていただいたり、カフェやいろんなところにチラシなどを持っていく作業をしてくれています。私と支配人の仕事は、まず上映する作品を探して選ぶこと。当然ほとんどの作品を観て決めていますので、試写会や劇場での営業が始まる前の早朝、終了後の深夜、試写用DVDなどで、一年間に250本ぐらいは見ます。休みの日にまとめて5本ぐらい観ることもよくありますね。次に上映する作品を交渉して決めます。約50社の配給会社とお付き合いしていて、作品の条件や内容、チラシやポスターなど宣伝材料の発注、宣伝のやり方についての議論など、日々電話でのやり取りがたくさんあります。キノの電話が話し中の時が多いのは、勿論お客様の問い合わせも多いのですが、配給会社との話の時は、どうしても長くなってしまうからです。宣伝に関しては経費がないものがほとんどなので、お金をかけずに工夫して宣伝するアイディアをいつも考えています。スタッフミーティングでは、いつも「何か、他にやることないか」といっているのでスタッフに嫌われています(笑)。 でも今やっていることに満足してしまうと、それ以上のことはできないですからね。一作品ごとに宣伝の仕方も違って、知恵と工夫が重要ということになります。通常劇場にいるときはお客様の反応もしっかりチェックします。なんでもそうですが、「現場」で感じることが重要です。デスクにいるときは私も電話に出ます。問い合わせの内容がどんなものなのか、これも実感として感じることができるチャンスです。

今のベースになっている、学生時代の経験

ー シアターキノを始めたきっかけは何ですか?

北大の映画研究会にはいっていたぐらいなので、基本的には映画が好きだからです。それと僕は場所というのがものすごく大切だと思っています。拠点の場所だけではなく精神的な場所、居場所でもあるでしょう。後で気づいたのですが、僕がずっとやってきたことは札幌における文化の場づくりだと思っています。僕が北大生のころは、今のようにビデオやネットなどは全くない時代でした。東京でやっている映画を札幌でも上映してほしいと映画館の関係者へお願いしても、規模の小さい映画は金にならない、儲からないという答えで、学生のうちに映画も金もうけなのだと知らされましたね。 じゃあどうする?東京まで観に行く?あきらめる?そうしたときに僕が仲間たちととった選択は自分たちで借りて上映することでした。北大のクラーク会館にあった映画用の35ミリの映写機を使い、東京の会社からフィルムを借りて自主上映にむけて動き始めました。でもどこの馬の骨かわからない学生にはなかなか貸してくれなくて、前払いや、保護者の保証人、細かな契約書などのやりとりがあり、実際に自主上映まで1年かかりました。結果大成功だったんです。黒字でしたね。頑張ればできるんだという実感でした。なにもなければ自分たちでやればいいと思うようになった原点です。74年には自分たちの仲間が集まれるような場所をつくりたくて飲み屋のエルフィンランドを開店させました。81年には「駅裏8号倉庫」という映像・芝居・音楽などができるフリースペースを開設。86年には会員制の上映スペース「イメージガレリオ」を開館。人がやらないなら、自分たちでやればいいと思いがありましたね。僕はけっして映画館のオーナーになりたくて生きてきたわけではないです。ただ80年代に札幌市内にあったミニシアターがつぎつぎと閉館してゆくのをみて、決断するときだと思いました。自分が札幌で何をしなくてはいけないかという役割を考えたんです。ミニシアターをなくしてはいけない、自分の役割を考えてシアターキノをオープンさせました。

ー シアターキノは20周年をむかえましたが、どのような思いで続けてきましたか?

大きな節目・転機っていうのはないです。原則は毎日の繰り返し。日々のちいさな幸せを平穏に暮らしていくという草食的な考えが今の時代にはいいと思うようになりました。一獲千金というよりは、時代にあっている小さな幸せで満足できるような感覚。そういうのって映画館のような日々の繰り返しにあっているんだということが、この20年でわかりました。何かを頑固を貫くことができるのはごくごく一部の少数な人しかできないですよ。環境や時代が変わるので、変わっていくことも大切だし、それでいいんだと思います。いい意味で時代と一緒に生きていくこと。僕の若い頃とはものすごく価値がかわっているから。僕は今62歳ですが、若い人たちと話すのは本当に面白いですね。同世代の人たちと話してもあまりおもしろくないのは、自分が変わっていくことに興味がなくなっている人が多いからです。これだけ社会が変わっているのだから、考え方が変わって当然なはずなんです。特に団塊の世代は人数が圧倒的に多いので、数に力があるのがちょっと困りものですね。昔の神話にもどせばなんとかなるという考えはあり得ないでしょう。本当は若い世代のひとたちが中心にならないといけない。ぼくは65歳になったら、仕事をへらして、せめて次の世代の枠をつくろうと思っています。少しでもそういう風に、若い世代にゆずっていく人が増えるといいと思います。シアターキノの今後は、とよく聞かれますが規模を大きくすることは全く考えていないです。シアターキノという場所がここにあり続けることが大切だと思っていますからね。

全力で取り組む、日常業務とは別の仕事

ー 中島さんにとって仕事での達成感とはなんでしょうか?

アスリートではないのでなにかひとつのことをやり遂げて、達成感を得てはいけないと思っています。達成感がいいと感じると、逆にしんどくなります。もちろん自分たちが選んだ映画が喜ばれるのは嬉しいことですが、山をひとつ登りましたという達成感があると、また次の達成感を求めてしまうのでしんどいですよね。映画を作る人にとっては必要でだけど、上映する人はまた別です。作る人たちというのは狩猟民族的です。撮影のためにテンションをあげて自分を追い込んで、感性を研ぎ澄まして臨むんです。神経をビリビリ状態にしたり、減量したりする人も多いですね。それで映画を作り終ったら魂がぬけたような脱力状態になるんです。僕ら上映する人間は真逆で農耕民族的です。日々規則正しく生活をした中で、小さな工夫をしていくタイプ。小さな工夫の積みかさねを毎日やっていたら、結果がついてくるという感じです。その時はたいへんだったと思う事も、いま考えるとたいしたことではなかったし、結局は毎日の繰り返しが重要ですね。

毎日の業務を行いながら、今以上になにかできることはないか、どうしたらもっとよくなるかと考えています。そんな考えの中で始まったのが「子ども映画制作ワークショップ」です。これは2005年より始まった、札幌近郊の中学1・2年生自身の手で映画制作を行うワークショップで、今年で6回目の実施となります。NPO法人北海道コミュニティシネマ・札幌の活動として、札幌市の文化遺産や憩いの場を舞台としているのですが、最初の制作の年はちょうどモエレ沼公園のグランドオープンの時期と重なったこともあり、札幌市の担当の人から、モエレ沼公園を舞台にしたらいいのではと提案をしていただきました。イサムノグチの素晴らしい文化遺産を舞台に映画をつくるという、とてもいい形で成立しました。その後は文化遺産だけでは人のつながりがでてこないので、大通り、狸小路商店街や発寒商店街を舞台に映画を作りました。基本的には、札幌市民に脚本を公募し、その中から中学生たちが選んで映画を作ります。できるだけ地域のひとたちと関わりたいと思っていましたからね。中学生たちと脚本が選ばれた人と私達とで、約一か月かけて脚本の手直しをして、そのあとオーディションして、夏休みに撮影をしました。2011年は発寒商店街を舞台とした「命の樹」という作品でしたが、その脚本は発寒の歴史が絡んでいて、バックボーンが見える内容で非常に面白いものでした。震災の後だったせいか、子供たちもよくそれを選んだなと思います。開拓時代の屯田兵の話しがファンタジーになった内容で、最後のクレジットに昔の写真を載せたところ、それを観た地元発寒の何人かの人たちは涙ぐんで見てくれました。映画を作る過程の中で中学生たちは屯田兵について知ろう、歴史についてもっと知ろうと考えてくれるようになったと思います。そしてもう一つ大事なことは実際プロの機材を使うこと。本物のスタジオでやること。そうすることで中学生たちの撮影に対する取り組み方の意識が違ってきます。日常では味わえない体験ですから、楽しんでくれていると思いますよ。勿論、私も楽しんでいます。まあ、一緒に遊んでいるっていう感じですね。本気で遊んでいます。映画っていうのはそういうもんです。本気で遊ぶっていうのは、ものすごい努力が必要なんですよ。このワークショップはほとんどお金にならないし、シアターキノの仕事としては1%の業務内容だけど、精神的な分では1割ぐらいを占めています。中学生たちの成長をみることが出来るのと、思いがけない反応が返ってきたりして、自分にとっても新たな発見があったりします。それに、この夢のない時代に夢を持てるようになりますよね。かといって、僕達はこれを教育のためにはやってないです。ひたすらいい映画をつくりたいという思いで取り組んでいます。いい映画はみんなが団結しなくてはできないので、結果としては教育になるのかもしれないけど。

ー どのような人がこのお仕事にむいているとおもいますか?

多様な価値観を認めることができるひとかな。この映画が好き!!そのことはいっぱいしゃべれるけど、他の映画のことはしゃべれないってのはだめです。映画は好きだけど演劇のことは語れないのもだめですね。あらゆるもの、社会や政治や文化に興味がある人。そして、日々の平凡な毎日の繰り返しがいいと思う人がむいていると思います。大きい何かをやりたい人には、シアターキノはむいてないと思いますよ。例えば映写の仕事は一人で孤独にひたすら上映し続ける。できてあたりまえの仕事ばかりですから。トラブルがあればなにやっているんだと怒られるという、そういうプレッシャーが常にあります。スタッフは映写ができるのが条件ですね。企画だけ考えたいっていうのは論外ですね。仕事を探すときによく自分探しとかいいますが、本当の自分なんてないと思います。社会っていうのは人と人や、いろいろなものが関わってできている。本当の自分を探そうと考えちゃうから、この仕事は向いてる、向いていないと決めつけてしまうのではないかな??それなりのそれぞれの役割がでてきたときに感情がでてきて、変化してくるんだと思う。父親になれば父親の役割を演じようと思うのと同じです。その環境に合わせたり、反発したりして、新しいその環境に対して役割を見つけていこうと思うはずです。仕事が自分にあってないな、と思っても3年ぐらいはやってみないとわからないよね。転職がだめだとはいわないけど、すぐやめてしまうのはもったいない。新しい自分を発見するチャンスだと思います。そこで自分の役割を考えたらいいのではないでしょうか。シアターキノが20年続いているのは、ここが誰かの場所、居場所になっていると思っていて、それが僕の役割だと思っているからです。

はたらきっぷ

ー 今の仕事に興味を持ったきっかけ、仕事に対する価値観が変わったきっかけなどを駅に例えて、きっぷに書き込んでみてください。

働き続けていて、なにか一つ革命的なことや特効薬があったわけではありません。そういうのがあった方が理想的なのかもしれないけど、極端なことではなく日々の積み重ね、少しずつの改善・工夫があって、今のはたらき方があるのだと思っている。
シアターキノ
代表   中島洋
住所   札幌市中央区南3西6南3条グランドビル2F
TEL   011-231-9355
FAX   011-231-9356
URL   http://theaterkino.net/